無責任という、自由を奪う毒。
随分前に、Facebookでシェアした事と、実体験含めて思ったことを、書きます。
同感。
自分自身、そういう事をどちらかと言えば、されてきた。
されてきた…って思ってるって事は、オレもどっかでやってるはずだ。
コレは素直に、認めよう。
でも、結果として色んな可能性が拡がらないと、気付いた。
うん。
「人をバカにして笑いを取る」
「人のコンプレックス、劣等感、ペインボディ(※1)をネタにする」
って、その瞬間は面白かったり、言った本人は気持ちがスッとするんだけど、結局は拡がらないんだよね。
言われた方の気持ち、ある程度理解して、わかっていてやってるのだろうか…って。
みんなどこかで、ソコ引っかからないのだろうか…って。
それは。
自分に対しても、相手に対しても盛る、毒。
妬み嫉みからくる、黒いシミのように残る、取れにくい毒。
それは、ダサいという事に、やっと気づいた。
そういうことを…。
無意識なのか、憂さ晴らしか知らないけれども、オレの知っている限り、何人かいる。
だれとは言わないが、そいつのことはハッキリ言ってダサいと思っている。
同時に。
その時に、ハッキリと嫌だからやめてくれ…って言えなかったオレも。
正直、ダサかったなと今では思っている。
いまさら、遅いかも…だけど。
直接言えない小心者だから(苦笑)
ココで、書いておこう。オレ自身と、そいつのために。
お前、やっぱりダサいよ。
それ、カッコ悪いよ。
止めろよ、マジで。
まぁ、やってもいいんだよ。
ただ、「言う方」がウラでな。
「ゴメン、お前に対してこういうこと言っちゃうけど、コレって面白いし必ず盛り上がるし、代わりにフォローも他の所でシッカリするから、言わせて」
という、インフォームド・コンセント(確認と同意)がシッカリあれば、別な気もするんだよ。
ソコで初めて、圧倒的信頼感が生まれる気がするんだよ。
オレたちは、それ…やってこなかったんだよな。
そう言う「確認と同意」自体が、恥ずかしくて、逃げまわってきたよな。
自分は多分、逆の事をやってきた。
「わかっている体」で、それを黙認し、演じていた。
言いたいことを言えずに我慢していた。
でも、それを演じるのはいい加減に疲れたんだ。
ハッキリ言わないのも、結局は傲慢・無責任なんだ…って気付いている。
言いっぱなし、やりっ放しは、結果として
「無責任という毒」
になる。
この、
「無責任という毒」
が人間本来の創造性とか、素晴らしさとか、童心とかを、壊している気がする。
「自由」と「自分勝手」を履き違えさせ、混乱に陥れている…そんな気がするのね。
意見があれば、欲しいな。
同感でも、反論でも、全く構わない。
ただ、感じたことを語ろうじゃないか。
※1ペインボディ…私が敬愛して止まない、エックハルト・トールさんのオリジナル心理学用語から、引用させて頂きました。
人間には古い記憶を長々と引きずる傾向があるから、ほとんどの人はエネルギーの場に古い感情的な苦痛の集積を抱えている。私はこれを「ペインボディ」と呼んでいる。
ネガティブな感情が湧いたときには、きちんと向きあってその正体を確認しておかないと、その感情が解消されず、あとに痛みが残る。
とくに子どもはネガティブな感情があまりに強いとどうすることもできなくて、それを感じないようにする傾向がある。敏感なおとながそばにいて理解し、ネガティブな感情とまっすぐ向きあうように愛情と共感をもって指導してやれればいいが、そうでない場合には、子どもにとっては感じないことが唯一の選択肢なのだ。
残念ながらこういう子どもの頃の防衛メカニズムは成人後も引きずっていることが多い。ネガティブな感情は認識されずに当人のなかに残り不安や怒り、発作的な暴力、むら気、さらには肉体的な病気などの間接的な形で現れる。(中略)
きちんと向き合い、受け入れ、そして手放すという作業がなされなかったネガティブな感情は痛みを残す。その痛みが積み重なり、身体の全細胞で活動するエネルギー場をつくりあげる。このエネルギー場を形成するのは子ども時代の痛みだけではない。青年期や成人後のつらい感情も付加されていく。 その大半はエゴの声が生み出したものだ。人生のベースに間違った自己認識があると、感情的な痛みという道連れは避けがたい。
ほとんどすべての人がもっている古くからの、しかし今も生き生きと息づいているこの感情のエネルギー場、それがペインボディである。
『ニュー・アース第5章から ペインボディ』p157
- 作者: エックハルト・トール,吉田利子
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